水戸烈士(天狗党)、武田耕雲斎等を偲びて
討つもはた討たれるもはた哀れなり
同じ日本の乱れとおもえば
咲く梅の花ははかなく散るとても
馨りは君が袖にうつらん
武田耕雲斎 辞世の句

元冶元年(1864)常陸国、水戸藩に於いて 天狗党が尊皇攘夷を
旗印に武田耕雲斎のもと1000人が、志を天朝に訴えんと京を目指す事に

11月1日 常陸国(茨城県)大子村を出立し、野洲、上州、信州、美濃、
そして雪降る越前へ、今庄宿より木の芽峠を越えて新保(敦賀市)に至りしも
加賀藩や各藩に、行手を阻まれ 京都へ上る志を断念し、加賀藩に降伏す
水戸烈士(天狗党)の墳墓は虹岳島荘より車で30分(敦賀市松原)に在り
史跡とし文化財に指定され 死罪や戦死、病死者の名が墓石に刻まれている。

烈士たちは、本勝寺、本妙寺、長遠寺より移されニシン倉に監禁となる
40日間程捕らわれの身で 永覚寺の「しらす」にて刑の確定が成され
死罪 353名 遠島 137名 追放 187名
水戸送り 130名 永厳寺あずけ 少年ら11名
元治2年2月 幕府の命により武田耕雲斎ら天狗党勢は、
来迎寺の境内にて処刑され その塚には411名が葬られている

(松原神社 武田耕雲斎等411柱を神として御祭りする)
明治維新(1868)まで、後4年と言う幕末の騒々しい時代に
尊皇攘夷を唱えての水戸烈士(天狗党)たちは、日本の前途を憂いつつ
敦賀は来迎寺の境内にて 無念の涙を呑んで露と消えしも
その遺志たるは「明治維新」を実現すべく原動力となりて
近代日本を誕生させる礎となり 塚に眠る烈士達は
今も、目覚しき日本の発展を見守り続けていてくれる事でしょう。
同じ日本の乱れとおもえば
咲く梅の花ははかなく散るとても
馨りは君が袖にうつらん
武田耕雲斎 辞世の句

元冶元年(1864)常陸国、水戸藩に於いて 天狗党が尊皇攘夷を
旗印に武田耕雲斎のもと1000人が、志を天朝に訴えんと京を目指す事に

11月1日 常陸国(茨城県)大子村を出立し、野洲、上州、信州、美濃、
そして雪降る越前へ、今庄宿より木の芽峠を越えて新保(敦賀市)に至りしも
加賀藩や各藩に、行手を阻まれ 京都へ上る志を断念し、加賀藩に降伏す
水戸烈士(天狗党)の墳墓は虹岳島荘より車で30分(敦賀市松原)に在り
史跡とし文化財に指定され 死罪や戦死、病死者の名が墓石に刻まれている。

烈士たちは、本勝寺、本妙寺、長遠寺より移されニシン倉に監禁となる
40日間程捕らわれの身で 永覚寺の「しらす」にて刑の確定が成され
死罪 353名 遠島 137名 追放 187名
水戸送り 130名 永厳寺あずけ 少年ら11名
元治2年2月 幕府の命により武田耕雲斎ら天狗党勢は、
来迎寺の境内にて処刑され その塚には411名が葬られている

(松原神社 武田耕雲斎等411柱を神として御祭りする)
明治維新(1868)まで、後4年と言う幕末の騒々しい時代に
尊皇攘夷を唱えての水戸烈士(天狗党)たちは、日本の前途を憂いつつ
敦賀は来迎寺の境内にて 無念の涙を呑んで露と消えしも
その遺志たるは「明治維新」を実現すべく原動力となりて
近代日本を誕生させる礎となり 塚に眠る烈士達は
今も、目覚しき日本の発展を見守り続けていてくれる事でしょう。